1964年東京オリンピックのレスリング会場が予定されていた横浜文化体育館
横浜市史料室が発行している「市史通信」第19号に、横浜市が1964年東京オリンピックでレスリングを誘致したことが書かれており、本協会の八田一朗会長も横浜開催に同意。オリンピック組織委員会の委員でもある神奈川県の内山岩太郎知事に開催要望していたことが分かった。
東京オリンピックは、東京都だけでなく神奈川、埼玉、千葉、長野ででも競技が行われている。オリンピックが実施されれば多くの観客が訪れて地元が潤い、道路などのインフラ整備が進むため、周辺の県や市も招致活動には積極的だった。
横浜市は1959年の東京オリンピック開催決定のあと、開港100周年記念の一環として新設することになった横浜文化体育館でのレスリング開催を八田会長に打診。1960年1月、八田会長から口頭で「協会としては横浜でやる方針で進んでいる」との言葉をもらったという。
そこで、翌年の世界選手権を横浜文化体育館に誘致し、実績を示してオリンピック誘致を目指すことを決定。同年4月に収容人員5000人を6500人に拡大して体育館の建設に着工し、八田会長を通じて国際レスリング連盟(FILA)に世界選手権の開催をリクエスト。同年8月のFILA総会(イタリア)で翌年の世界選手権の横浜開催が決定した(当時は1年前に世界選手権の開催地が決まるという悠長な時代だったようだ。オリンピックの各競技の会場すら、開催地決定の段階で決まっていなかった)。
ところが、大きな誤算が起きた。1961年3月26日、季節外れの大雪のため完成間近の体育館の天井の半分以上が落下(日曜日だったこともあって死傷者はなし)。大雪と屋根の強度計算の誤算が原因だったようだが、6月の同所での世界選手権開催は不可能となり、急きょ同じ横浜市にある慶大の日吉記念館に変更して行われた。
FILAのロジャー・クーロン会長に最新の体育館を見せることができなかったことが災いしたのかどうかは分からないが、同会長はオリンピックの都内開催を要望。最終的に駒沢体育館での実施になったという。
なお、横浜文化体育館は追加予算を組んで完成させ、同オリンピックではバスケットボールとバレーボールの予選が行われている。